どうも、ふーらいです。
あんまり人前で言う話ではありませんが、私は高校生までスクールカーストの底辺にいました。大学生になって開放されるまでは、学校が本当に嫌いでした。
当事者だった私が今思うこと。それは――
「いじめをなくそう」
「いじめを起こしてはいけない」
こういった「いじめは存在してはいけない」系の主張はすべて、根本的に間違っているということです。なぜ、そう思うのか。それを以下に書いていきます。
いじめが起こると責任者探しを始める無意味さ
いじめが問題になると、ほとんどの大人は「なぜ、いじめが起こったのか」ばかり考えます。特に、被害者の人が亡くなった際はこの論調が強くなります。
いじめは存在してはいけないのですから、当然ですね。なぜ起こったかを考え、分析し、再発防止に努めなければなりません。
しかしこれ、ただの責任者探しなんですよね。学校も教育委員会も企業も、そう簡単にいじめの存在は認めません。認めると、責任を取らなければいけないからです。
それに、いじめの構造は加害者と被害者の立場だけで言えば単純ですが、加害者の動機に触れる場合は問題が急にややこしくなります。
特に加害者が子どもの場合、本当に加害者だけが悪いのか? 家庭内での問題、教師との関係性……そういったことをすべて紐解くことは、事実上不可能でしょう。
よく「いじめは犯罪だから加害者を犯罪者にするべき」という意見もありますが、加害者側の背景にまったく触れないというのも暴力的で、それこそいじめになりかねません。
そんな中で誰の責任かを問うことは、まったく意味がありません。より正確に言えば「程度の差はあれ、関わった全員に責任がある」と言うべき内容です。
責任者が存在しない(できない)以上、対策には限界があります。
大人もいじめをなくせていないよね?
大人の社会生活においても、いじめは存在しています。
ブラック企業なぞ論外ですが、そうでなくとも特定の人物をいじめたり、パワハラと呼ばれるハラスメント行為があちこちで起こっていますよね。
理性を持ち、法律を理解している大人がこうなのに、大人は子どもにこう言います。
「いじめはよくない。いじめをなくそう」
これっておかしいと思いません?
明らかに子どもより知識を持ち、理性で感情をコントロールする術を身に着けている大人ができていないことを、なぜ子どもにさせようとするのでしょう。
いじめは自然災害である
大人がどれだけコントロールしようとしても、起こってしまうこと。
これってもう自然災害と同じです。
たとえば地震。確かに地震は起こって欲しくありませんが、地震対策と聞いて「よし、これから1日3回神様に地震が起こらないようお祈りしよう」と考える人は稀でしょう。
それは、どんなに「来るな、来て欲しくない!」と願ったところで、災害には意味がないからです。いつ起こるか、どれくらいの規模か分からないけど、来る可能性がある。
私は、いじめも同じだと思います。
確かに、いじめは人の手で起こされるもの。自然災害とは違う存在かもしれません。
しかし、子どもはもちろん、大人でもコントロールできず、いつ被害者になるか、加害者になってしまうかすら分からない――これって、自然災害と何も変わりません。
自然災害への対策とは、起こった時の対策である
同じく、先の地震を例にあげて考えてみます。
多くの人は地震対策と言えば、避難用のアイテムを揃えたり、避難場所を確認したり、家具を固定したり――起こった時のことを考えて、行動をしますよね?
地震は起きてしまうものです。起こらない方法を考えるより、起きた時にどうすべきかを考えます。これが、災害に対する対策です。
いじめも同じです。
「いじめが起こりませんように!」なんて願ったところで、いじめはやってきます。
いじめは存在しないものとして考えているせいで犯人探しばかりが行われ、それが収まるとお祭りはおしまい。そして再び被害者が出ると、犯人探しでお祭り騒ぎの繰り返しです。
そうではなくて、いじめは起こるものだからこそ、起こった時の対策をしっかりと講じる必要があります。
いじめなんてケースバイケースが多すぎますが、それでも最低限の対策マニュアルがあっていいですし、むしろいじめを公表して対策をしっかり練る学校こそ称賛されるべきです。
いじめが起こったにも関わらず被害を最小限に抑えることに成功したのであれば、そのノウハウを共有し合って行くことで確実にいじめによる問題は小さくできます。
いじめが起こっていないなら、それは素晴らしいことなのであって、いじめが起こること自体はなんのマイナスでもありません。いじめが存在することは当たり前なんです。
いじめが存在してはいけない社会である限り、いじめは被害者が出るまで明るみにならず、明るみになった時には手遅れで、責任者探し以外やることがないのです。
いじめは常に存在するという考え方
こんなことを言っている私も、いじめなんて存在しない方がいいと思っています。
今苦しんでいる人からすれば「地獄を卒業したからって適当なこと言いやがって」と思うかもしれません。実際、昔の私ならそう感じたと思います。
それでもと言うか、だからこそと言うか。大人になってもなお解決できない問題を、ただ存在しないように行動をすることが正しいとは考えられません。
いじめは常にニュースで流れていますが、どれも事案は異なります。ひとつが報道され、解決しないまま次が流れていく。
加害者のやり方や被害者のダメージ、取り巻く環境にどれだけ言及されても、そのほとんどがすでに手遅れ。犯人探しでスッキリしただけで、何の進展もありません。
なんて酷い手口なんだ。親は、教師は何をしていたんだ。真の責任者は誰なんだ。被害者に落ち度はないのか。犯罪として立憲するべきだ。加害者の人権はどうするんだ。
いじめはないに越したことはありません。でも、こんな堂々巡りを延々と続けて、意味があるのでしょうか。苦しむ人を減らすことができるのでしょうか。
もはや、いじめは一種のエンターテイメントとして消化されているのかもしれません。次は、私たちが酷い目に合うかもしれないのに……
まとめ:自然災害は嫌でも起こる。起こった時の対策を
この記事を私が書いている今も、あなたが読んでくれているこの瞬間にも、いじめは人の心を傷付けています。
いじめは存在するものとして認識され、自然災害のように対策が講じられ、隠すのではなく、公表して被害を抑えていく社会になればと思います。
最後に、さかなクンの文章を引用して終わりたいと思います。
この文、一種の真理のように思えます。朝日新聞に2006年に掲載されたものです。興味のある人はぜひ、リンク先から全文を読んでみてください。
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。
以上だ! また会おう!!