※こちらの記事は2022年にFANBOXで支援者限定の記事になっていたものを、若干マイルドにしてブログに移動させたものです。ブログ向けではないので少々トゲがあります。この点を了承してくれる方のみ、続きへどうぞ。
反出生主義とはなんぞや? という人はwikiを参照。超簡単に言うと「生まれない方が幸せだから子作りしない」という考え方です。
反出生主義 - Wikipedia
なぜこんな発想を持っている(いた)かと言うと、単純に自分が人生に向いていないから。
精神面はもちろんなんですが、どちらかと言えば身体面。男でありながら低身長、虚弱体質で生きてきた私にとって、自分の遺伝子というのは劣悪な存在で、それを子どもという本来愛すべき存在に残すことは虐待と同義である、と本気で考えていたためです。
ちなみに、最近の反出生主義という単語はリベラルやフェミニストが、悪口を書く時の動機及び逃げる際の言い訳用の言葉になっています。Twitterでプロフィールに反出生主義と書いてあるアカウントには決して近付かないことです。
ペットを飼うのと同じ
例えば、猫を飼うとしましょう。猫を飼うためには、猫を飼育出来る環境を用意しますよね。猫ちゃんのご飯に玩具を買い、体調不良なら動物病院に連れていける経済状態も必要です。自分に何かあった時のことを考え、預ける先を準備している人もいるでしょう。
これらのことは別に普通です。良い飼い主とかではなくて、ペットという生命を迎える以上は当たり前のこととして捉えられています。「飼える人だけが飼う」。
これが普通で、当然で、そうしないなら批難されます。
ところが、これが子どもとなると途端に敷居が下がります。
経済的に余裕がなくてもヤることヤってポンポン量産した挙げ句「政府は子育て支援がなってない」と叫ぶ人がいます。この主張が正しいか否かの前に、なんの準備もなく生命を迎えることは批難されるべきです。
不思議なことに、人間が対象になると「飼える人だけが飼う」の前提は途端に緩くなります。
劣悪な環境で育てられる子どもは、可哀想ではないでしょうか。猫ちゃんと同じです。人間と猫に違いはあれど、子育てもペットも生きる上において必須ではありません。何なら、人権がある分人間の方が丁重に扱われなければおかしくないですか?
そして、猫はだいたい去勢します。ポンポン産まれると面倒を見きれません。
反出生主義というのは、この世に誕生することで発生する不幸を回避する考え方です。生きるということが基本不幸であるなら、そもそも生命を誕生させる必要があるのか? ということです。
生まれてずっと人生が幸せだと感じている人には思いつかない思考です。しかし、そんな人はこの世界に何%いるのかって話です。
生まれたら幸せなことも確かにあるでしょう。しかし反出生主義とは「最大の幸福を求める」ではなく「最小の不幸に抑える」ことを目的としています。
まして、私のように人生が身体的な理由で暗かった人間にとって見れば、子孫もまたその可能性を持ってしまうことは恐ろしく不幸で、悲しいことです。だったら、最初から生まれるべきではない。
子どもという存在を愛するのなら、その愛する対象に私の遺伝子を与えてはいけないのです。会わないことが愛情になります。
優しい考えだと思うんですよ、反出生主義。今のフェミニストが攻撃性に利用しているせいで、もはやその面影はないんですけども。本来は人の不幸を最小限に抑えるための思考ですし。
なんで変わったのか
理由はふたつ。まずひとつ目の話をします。
まず、私がこうして不幸を最小にしようと考えたところで、この世では考えのない人間が不幸を量産しています。デキちゃった婚はなくならないし、赤ちゃんポストは必要だし、防げない虐待で失われる生命で溢れています。
そして、私が幼少期からいろいろ言われたのは他でもない、こういう何の考えもない人が私を始め、弱い対象を見つけて殴る人たちのせいです。
なぜ私がこういう、他者を何とも思わない対象に配慮する必要があるのでしょう。攻撃性を持っているのは「あっち側」であり、私がどんな生き方をしようと要因は「あっち側」です。
そんな「あっち側」に配慮して私の人生の選択肢が狭まるのは我慢ならなくなった――とまぁそんな、割と若い考えです。攻撃された側が萎縮するのはおかしいでしょうよ、というね。
で、もうひとつ。本能的な部分です。そら男として生きている以上、好きな女の子は孕ませたいよねっていう。そりゃ分かるわって私自身がなったという話。
深掘りすると、子どもという生命を育む行為というのは、先に散々述べたような理屈や思想の外にあるもので、それは食事や睡眠と同じカテゴリなんだと考えるようになったためです(これもまた考えないと出てこない辺りが自分らしさな気がします)。
幸せだとかコスパだとか遺伝子だとか、そういったありとあらゆる理屈を通り越すもの。欲望、もっと言えば感情という、人間の意思決定に関わる根本だからです。
どんな正論も道理も、感情という意思決定には勝てないのです。「子どもが欲しい」という気持ちがあって生命を迎える限り、そこに論理的な障壁は存在しないのです。
だからって無責任子作りは支持しない
あえて強い言葉で要約すると、バカは支持しないし、したくない。そんだけ。
「感情に任せる」という結論を、本当に最初から感情に任せただけの行為と、考え抜いた上で感情に任せる行為とは、外から見て同じでも中身が異なる、というのが私の考えです。
鉛筆を転がして決めた一票も、相手を信じて投じた一票も同じ一票ですが、その一票は同じ名前の違うアイテムであると信じています。
結局のところ私のような頭でっかちは、いろんなことを考えます。それは必要なことよりも不要なことの方が多くて、道理のいらないことにも道理を求めてしまいがちです。理由のないことはやりたくないし、誰かが泣かないと得られない幸福を得ようとは思えません。
今もなお私は「最大の幸福」より「最小の不幸」という考えを持ってはいます。
しかしながら、この世というのは不幸を避けられません。鬱状態の時、多くの人は「何もいらないから何も起こらないで欲しい」と願うものですが、実際のところこの論理は成立しません。
この世は等価交換で成立していないからです。存在しない穴に落ちて怪我をし、買ってもいない宝くじに当たるのが人生という概念です。
そうであるなら、最小の不幸を人生の渡り方としながらも、時に感情の言うことを「しょーがねーな」って顔をして聞くこともまた、生き方の中で必要なのではないかと思います。
あとがき(2026年4月)
当時は今以上に思考がひたすら先行しているタイプでしたね。まだ若い(ぇー
それでも「考え抜いた結論とランダムで出た結論が同じでも、その過程の違いが中身の違いになる」ってのは今でもそう思います。

