長時間の運転で疲れたので、コンビニに立ち寄る。買いたいドリンクが目の前で取られて品切れ。仕方ないと妥協で手に取ったドリンクが、値札違いでちょっと高い。
まぁ、わざわざ拒否することもないかと購入。店を出ようとするところで、前を見ていない子どもに強烈なタックルを喰らう。
せめて親が謝れば気は紛れるのだけれど、親は外の車からもうひとりの子どもの世話で必死。ため息を付いて、流れで買った初めてのドリンクを一口飲む。
クソ不味い。
どうも、ふーらいです。
この記事はpixivFANBOXで先行公開していた記事を、読みやすくマイルドにしたものです。過激で読みにくい原文はこちらから。
誰かが特別悪いというワケではないけれど、そのダメージが尽く自分に降り注ぐ。それはまるで、そうなるよう誰かが作ったシナリオのように――
――昔、こういうネタを集めたラジオ企画『イタゴラスイッチ』ってのがありましたね。NHK教育『ピタゴラスイッチ』のように、丁寧に仕組まれた不幸の連続が紹介されていて、私は好きでした。
人生というのは割とこういう、理不尽な不幸の連続が起こります。まさに「泣きっ面に蜂」。
誰も悪くない。誰も責められないけれど、それを言うなら自分も悪くはないハズなのに、どうしてこんな目に……
理不尽がとても辛いワケ
理不尽とは、理の通っていない結果です。悪いことをした結果として悪いことが自分の身に降り注ぐなら、私たちはそれに(嫌々ではあっても)耐えることができます。
しかし何もしていなかったり、善いことをした矢先に不幸な目に合うと、それが小さな不幸であっても心を深く抉ります。
これは当然と言えば当然で、もし理不尽なことを簡単に認めて飲み込めてしまうと、自分の身の安全を保つ努力ができなくなるためです。
人は日頃からより良く生きていくために、いろんな努力をしています。労働にせよ人間関係にせよ、家事にせよ人生設計にせよ、私たちは「備える」ことで生きていますよね。
将来をある程度予測して、先手を打っているのです。未来を予測する能力は人間固有だとする学者の話も聞いたことがあります。
しかし、理不尽というのは「備える」という発想を破壊してしまいます。
ある日隕石が直撃するだとか、道を歩いているところに車が突っ込んでくる的なことで、これに怯えていては何もできないし、かといって如何なる備えもこのリスクを完全なゼロにはできません。
これは、未来を予測する能力の明確なデメリットです。
人はこれに対し、日頃は意識しないようにして心の平穏を保っています。不安という鍋に蓋をしているのです。この蓋を開けてしまうのが理不尽であり、私たちが理不尽に心を抉られるメカニズム……
……なんじゃないかなぁと、私は思ってます。ごめんね、ソースとか無い。
因果を求めて狂気に染まる
理不尽に出会った時、私たちはつい「誰かが悪いのではないか?」と考えがちです。
あの時自分がこのコンビニで止まらなければ、自分の好みのドリンクを目の前で取られた時点で諦めて買わなければ、レジで値段を見た段階で買うのを止めておけば、店を出る時に自分自身ももっと外を注視しておけば……
とまぁ、多くの人は自分の中にそれを求めるでしょう。たとえ自分が悪かったとしても、その方が理不尽な不幸よりは納得できるからです。
起こった現実は変わらなくても、その因果が存在するだけで人は安心を覚えます。蓋は閉じられますからね。しかし、大抵の場合は自分も悪くありません。
思い返して見ても、回避のしようがない。となると……
誰かが私を陥れているんだ
私が疲れるであろう場所で待機し、私の好みを目の前で奪い、判断力の鈍った私からお金を奪い、子どもを使ってダメージを与えてきた。あんなクソ不味いドリンクを人に売るのはおかしい。毒が入っていたのかもしれない。私の現在地が分かったのは衛星か? 盗聴か??
……と、こうなると陰謀論とか集団ストーカー的な流れになってきますが、ここまで飛躍しなくとも、ちょっとしたことに悪意を感じ取ってしまう人がいます。
軽い間違いを指摘しただけで「バカにしてるのか!」とキレる人や、ちょこっとぶつかっただけで「舐めてるのか!」ってなる人たちです。
彼らにとっては、この世界で起こるすべての出来事が自分への攻撃だと感じるのです。
ただ間違っていると言われただけで「お前はバカだ」と言われたと思っているし、たまたまぶつかっただけでも「オレを舐めてるからワザとぶつかったんだ」と感じてしまいます。
ここでようやくタイトル回収になりますが、これが『敵意帰属バイアス』という認知の歪みです。
理不尽のままでは耐えられないからと因果を求め、狂気に染まった成れの果て。結構な数います、こういう人。彼らにとっては全て攻撃行動であるため、こちらの言葉が通じません。
「日本語が通じているのに、意味が通じない」と感じる時、相手が言いたいことは「自分はお前に酷い目に合わされた」であり、それ以外は何を言っていようとも、すべて意味のない言葉です。
彼らを救うのは困難を極めます。バイアスをある程度のレベルに戻すには、その人の心に優しく寄り添う必要があります。
しかし、近付けば彼らは攻撃してきます。貴方が攻撃してくると思っているので、攻撃される前に倒そうとしてくるワケですね。それを受け止めてまで、治そうと思えるかと言えば……
理不尽を理不尽として受け止める
狂わないためには、理不尽を理不尽のまま受け止める必要があります。
実際、不安の蓋が開いても辛いのは一時的です。
よっぽど印象的でない限りは一週間もすれば忘れていますし、思い出せたとしても、理不尽に合った当時の痛みとは比較にならないほど優しい痛みに変わっているハズ。
蓋は勝手に閉じられるのです。ストレスは時間が解決してくれます。
もちろん、私たちにとって理不尽はウィークポイント。4倍弱点みたいなもので、瞬間ダメージは相当なものです。
笑って誤魔化せとは言いません。美味しい何かを食べるとか、ポケモンを愛でるとか、ふて寝するとか……自分の好きなことで上手く散らしながら、理不尽と付き合っていきましょう。
理不尽に因果を求めないことです。一見、因果を求める姿勢は強そうに見えることもありますが、それはまったくの間違い。
理不尽を理不尽のままに受け止めて、ちょっと出た涙を誰に知られることもなく、いつもの牛丼を大盛りにして、卵も付けちゃおう。美味しく食べた後日、体重計に乗ってまた涙が――
――でもこれが。これこそが、目指すべき大人としての精神像だと私は考えます。
以上だ! また会おう!!